木枯らし悲歌(えれじぃ)
(加川良氏の歌の題名とは直接関係ありません)

 


 が居た。
薄暗くなりつつある狭い部屋の中、丸めた布団
注1)に上半身をもたせかけたまま、男は先程から黙って天井を見つめていた。明日中にはどうしても決めなければならない。もう10月も半ばを過ぎている。注2) 
男はその期限をずっと引き延ばしてきていたのだ。
就職か否か、二つに一つで道は決まる。男は悩んでいた。両親ももうそれほど若くはない。早く金の稼げる人間になって安心させなければならない事はよくわかっている。しかし、この決心によって自分の一生の大半が決まってしまうかと思うと、男はたまらなく、やりきれない思いだった。
注3)

「就職」を選択することによって、厳然と目の前に敷かれる一本のレール。毎日会社に通って、朝から晩まで働いて、そのうち少しばかりのお金を貯めて結婚して、子供を作って育てるためにまた働いて、「死」というゴールまで真っすぐに・・・。
「・・・・・・」


 
は街に出た。たださえ寒い晩秋の夕暮れに、この地方特有の一足早い木枯らしが吹き荒れている。コートのポケット注4)に両手を突っ込んだまま、二時間ほど街を歩きまわった男は、やがて小さな川にかかった橋の上に出た。黒い水面が、吹きすさぶ風に小さく波立っているのを見たとき、男の心は決まった。

「ようし、俺は就職などせんぞ!サラリーマンなどクソ喰らえ。俺は俺の道を一人で歩いて行く。レールなんて真っ平だ!」


 
の日、男は、学校の就職相談担当注5)であり、かつ現在のクラス担任でもあるK教授のところへ行って、その決心を話した。教授は何とか男を説得しようと試みたが、男の心はガンとして揺るがず、ついに教授は言った。
「そうですか、それじゃぁ君の好きなようにやってみなさい。あたしゃぁ知りませんよ。」
夜になって、男は実家に電話をかけたが、より出来のいい弟の方に望みをかけているのか、両親は特に反対もしなかった。


 
日から、男は晴れ晴れとした顔つきで、それまでサボりがちだった授業にも出始めた。就職試験のために髪を短く刈り上げた級友の顔を横眼で見ながら。注6)
「ヘン。企業に身を売る愚か者め。これからはたかが10万余りの月給注7)のためにあくせく働くのか。だが俺は違う。俺は一人で生きて行くんだ。好きなことをやって。それが本当の人間ってもんだ。人生ってもんだ!!」


 
生としての残りの三ヶ月は、それこそアッという間に過ぎ、卒業と同時に皆はそれぞれの生活の場所へと散って行った。男もまた散って行く事に変わりはない。ただ男には、級友の顔が、これから檻に入っていく囚人の顔にも見えていたのだった。


 
れから半年、一年、と月日は流れた。最初は羨ましがり、次第に男のことを心配していた友人達も、少しずつ男のことを忘れていった。たまには風の便りに、何とかいうバンドのバンドボーイ注8)をやっている、とか、どこかのコンサートの前座で歌っているのを見たとかいう噂を聞いた者もいたが、それもじきに忘れられてしまった。


 
日はさらに流れた。幾度目かの不景気と好景気を繰り返しながら、それでも日本はしぶとく生き残った。世の中はすっかり変わってしまったように見えたが、何一つ変わらないものもある。
 骨まで突き抜けそうな北風が吹きすさぶ夕暮れの街を、とぼとぼと、それでも古いハードケースに入ったギターだけは大事そうに抱えて歩く一人の男の姿があった。くたびれたズボンに、肘が擦り切れたジャケット、ホームレス
注9)同然のその男の頭には、もうずいぶん白いものが混じっていた。三十数年前の一大決心も、男はもう忘れていた。落ちぶれ果てた男には、もうそんなことはどうでも良いことであった。男はただ、一杯の酒と、暖かく眠れる場所が欲しかった。しかし一銭の金もなく、妻にもとうに逃げられた、その日暮しの男には、帰るべき場所も無かった。そのギターを質注10)にでも入れれば一杯の酒くらいは飲めるかも知れない。しかし男にはできなかった。心の中も、体の中も、ただ凍えるように寒かった。
 その時、ふと、「死」というフレーズが男の頭をかすめた。最初は針の先ほどだったその言葉は、一足歩くごとに男の心の中で大きくなっていった。そして町はずれの大きな川にかかる橋のたもとに来た時には、もう男の脳裏にはこの言葉しか無かった。

「死ねば寒くない。死ねば少しは楽になれるだろう・・・」


 
のつもりで身を乗り出そうとすれば意外に高い欄干から、黒く波立つ水面を見下ろした時、男はふと、ずうっと前にもこんなことがあったような気がした。「その時」に俺は何かとてつもなく大きな間違いを犯したのだ、とぼんやりと考えた。しかしその小さな記憶は、いま「死」への誘惑に打ち勝つにはあまりにも遠くのものであった。男はゆっくりと欄干に足をかけ、今度は強くそれを後ろに蹴った。ギターケースをしっかりと抱いたままで。


 
の冷たさはそれほどでもなかった。男は薄れていく意識の中で、「そうだ。お前はあの時に間違ったのだ・・・」という声を聞いたような気がした。


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くから自分の名前を呼ぶ声に、男は目を覚ました。
びっしょりと汗をかいている。見慣れた木目の、自分の部屋の天井がそこにあった。ドアの外の声は、男の名前を呼び続けている。男はゆっくりと起き上がり、思わず苦笑いをした。ドアの外の訪問者に向かって「はーい!」と答えて、靴を履きながら男は思った。
「人間らしい生き方、か。たとえ後悔しても、レールの上よりは自分の信じる道を行くのが本当なのかな?」

しかし、今となってはもう遅すぎた。男は三日前に就職試験の最終面接を受けて来ていたのである。当然、長かった髪も刈り上げて。

ドアの外で、男は自分宛の電報
注11)を受け取った。

「サイヨウナイテイス。○○○○××××カブシキカイシヤ」


(この物語の約65%はフィクションであり、実在する組織や人物とはあんまり関係ありません。)
                                1975年11月 by よう
      ................................................................................

<以下注記>

注1)
 このころ、ワンルームマンションなどというようなものはなく、学生の下宿と言えば4畳半か6畳一間のタタミの部屋に布団、と相場が決まっていた。家賃は月5000円から7000円。
布団は当然毎日上げられるはずもなく、半分に折るか丸められるのが関の山、ひどい場合は半年間も敷きっぱなしだった。なにせ、パジャマのまま下駄ばきで授業に出るような猛者がいた時代である。



注2)
 当時(1975年頃)、就職活動の開始は今のように早くなくて、最終学年の夏休み前ころからようやく会社訪問や面接が行われるのが普通であり、11月になってようやく就職先が決まるようなことも稀ではなかった。今と違ってさらに上に進学する者は少なく、ほとんどの学生が就職していた。


注3)
 当時は「フリーター」などというカッコいい言葉もなかったため、就職も進学もしないということは即「失業者」あるいは「瘋癲(フーテン)者」の烙印を押されることを意味し、かなり恥ずかしいこととされていた。



注4)
 自分が持っていた「コート」らしきものはただ1つ、ジーンズ地で丈は膝くらいまであるやつだった。かぐや姫の正やんがよく着ていたので真似をして買った。ついでに履物は、カカトが高くて先が丸いサンダルだった。


注5)
 小さな大学や高専では、学内に就職活動をサポートしてくれる一大組織があるわけではなく、教授(理系の場合、企業から来ている場合も多い)と、学科のごく少数の事務員さんがアシストをしてくれていた。教室の近くの壁に貼り出された企業情報を必死で見ていたものだ。あの頃インターネットがあればなぁと思う。まあ、情報過多っていう部分もあるけど。


注6)
 これは今も昔も同じ。スーツではなく詰襟の学生服で会社訪問することも多かった。ただ、シューカツのために茶髪を真っ黒に染め直すというようなことは無かった。娘がシューカツの頃、真っ黒いスーツと髪で出て行こうとするのを見て、「お、誰か亡くなったんか?」と訊ねたら思いきりバカにされたっけ・・。


注7)
 確か会社に入って最初にもらった給料は11万円くらいだったと記憶している。それから30年以上経って、今は20万円くらい?考えてみたらそんなに上がっていないなぁ。給料で最初に買った自分のものは、大きなステレオセットだった。


注8)

 「バンドボーイ」はもはや死語かも知れない。今は「ローディー」と呼ぶらしい。有名なバンドについて回り、楽器運びや運転手をしたりする若いお兄ちゃんのこと。うまく行けばメンバーの欠員や何かで正式メンバーになれる可能性もあった。あの「志村けん」は「ドリフターズ」のバンドボーイだったという話だが・・。


注9)

 「ホームレス」という言葉は当時無かったので、原文では「乞食」となっていた。ちょっとまずいかもと思って後に修正した。「乞食」という言葉が死語になったのは、「食」を「乞」わなくても生きていける世の中になったからだ、と何かに書いてあった。


注10)

 物の現金化の手段としたら、質屋しか無かったのではないだろうか。そうでなければ知り合いに売るとか。小さい町でも必ず何軒かの質屋はあった。経験上、物を質に入れたことはないが、質流れの品を安く買ったことはある。初めて買ったトラック別録音のできるテープレコーダーがそうだった。英語には使わずもっぱらギターの重ね録りに使っていた。
今ならば「ネットオークション」なんだろうな。


注11)

 この時代、当然携帯電話やメールはなく、一人暮らしの学生のアパートなどには普通の電話さえ無いことが多かったためか、こういった合格通知(受験も含め)には「電報」が使われることが多かった。合格通知なら「サクラサク」みたいな。カタカナしか使えないのでこんな表現になる。

 

 

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