ライン

ようさんの音楽暦(歴)
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ブログに書いた思い出話のうち、音楽関係だけ集めてみました

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1. ビートルズ

 何がきっかけでギターが欲しいと思い始めたのか、今はもう思い出せない。小学生の頃、ビートルズが武道館にやって来てえらい騒ぎだったのを覚えてはいるが、なんで女の人があんなにキャーキャー騒ぐのか、子供心にどうしても理解出来なかった。
 そのうちグループサウンズブームが始まり、外見は長髪ミリタリールックって言う細身の軍服みたいなやつ、やってる曲は歌謡曲そのまま、テクは最低?の連中が一世を風靡した。数え切れないほどの数のバンドがあり、彼らが出演する歌番組もいっぱいあった。ほとんどが口パクだったような気がするが・・・中でも「スパイダース」が割と好きで、バンバンバンとか口ずさんでいたら、当時まだ三十代だった親父に「ビートルズは本物だがあいつらは猿真似のまがい物だからそんな歌はやめろ」と怒られた。今思うと確かにこれは正しかった。




2.夢は夜ひらく

 しばらくして、もう一度ビートルズブームがあって、その時初めて「Let it be」を聴いた。自分の家にはレコードプレーヤがなかったので友人の部屋で聴かせてもらったが、これには参った。新しかった。そいつのレコードを擦り切れるくらい聴いて、必死で覚えた。同じ頃、藤圭子(本名:宇多田純子 言わずと知れた宇多田ヒカルのおかん)にもハマった。こんな綺麗な顔の人が世の中にいるのかと思った。
 「新宿の女」とか「命預けます」とかド演歌の歌詞をラジオで聴きながらノートに書いている男子中学生と言うのは、今考えるとかなりキモいが、しばらく後に五木寛之が、「演歌を馬鹿にしている人は、一度部屋の明かりを暗くして、藤圭子の歌を聞いてみれば考えが変わる」と何かに書いていたのを読んで、同感!と思った。




3.シャボン玉ホリデー

 そうそう、話はやや前後するが、忘れてはいけないのが「シャボン玉ホリデー」っていうバラエティー番組。別にザ・ピーナッツのファンだった訳ではなく、クレージーキャッツのコントを見たさに、毎週日曜夕方6:30は必ずチャンネルを合わせていた。コントは下品ではなかったし、何より出演者はみんな歌がホントにうまかった。生放送だったらしいが、今はこんな番組はないなあ。
 毎回のエンディングで、シルエットになったギタリストが弾いていた曲がものすごく良くて、曲名も知らないまま、ずっとあんなギターソロに憧れていた。単音しか弾いてなかったような気もするが、すごい音だった。ひょっとしたら、これがギターを欲しいと思った最初かも知れない。
 ずいぶん後になって、その曲が「スターダスト」というタイトルである事を知った。最近、ネットから楽譜を手に入れたので、時間を見つけてチャレンジしようと思っているが、これがなかなか難しい。




4.白いギター

 この頃がたぶん日本の音楽(レコード)市場のピークだったのだろう。洋楽、歌謡曲、演歌、フォーク、インスト、色んなジャンルでそれぞれに入れ替わり立ち替わりヒット曲が登場した。ベツィ&クリスの「花のように」とか、アーティストは忘れたがトランペットソロの「マルタ島の砂」とか、「知床旅情」とか、節操が無いが全部好きだった。そうこうしているうちに拓郎が出てきた。前にも書いたが、「イメージの詩」を雑音混じりの深夜放送で初めて聴いた時の新鮮な驚きは忘れない。
 高校に入る前の春休み、一週間ほど土方のバイトをして、その金でゴールデンウイーク中にギターを買いに行った。7000円の白いクラシックギターだった。安物だったが嬉しかった。でも、なんでクラシックギターだったのだろう?詳しくは覚えていないが、たぶん「ギターに詳しい」先輩がこう言ったに違いない。「お前、基本はクラシックやで。基本からやってたらエレキでもフォークでも何でもいけるで。」・・そんなもんかなぁ?




5.明星と平凡

 一緒に買った教則本でかなり練習した。弾けるようになった曲が「浜千鳥」♪明日浜辺をさまよえば・・おい、これは何か違うぞ!
とにかく弾けるようになりたくて、NHKのギター教室も毎週見た。映像と音が両方あるのは有り難かった。おかげで「禁じられた遊び」「マリアルイサ」「アルハンブラ(部分)」などをまがりなりに弾けるようになったが、これも何か違うよなあ。
 相前後して「戦争を知らない子供たち」って言う歌がヒットした。ジローズの長髪とジーンズがものすごくカッコ良かった。女の子にモテるにはこれしか無いと思い、ジャカジャカやった。学生寮で同室だった気の弱い先輩は、うるさくてまったく勉強ができず可哀想だったが、コードストロークの弾き語りはすぐできるようになった。クラシックの曲が最低1か月は練習しないと曲にならないのに比べ、弾き語りならコードさえ覚えておけばすぐにでも弾けてしまう。これこれ!と思い、以後はコードの押さえ方とストロークやアルペジオパターンを覚えることに終始した。

「平凡」とか「明星」とかの雑誌には毎月歌本が付録でついていて、コードも載っていたので、これを頼りに弾きまくった。カポタストという便利なものを知ったのもこの頃。E♭なんて言う指の吊りそうなコードが、カポを3フレットにセットするだけでCに変わるというのは驚愕だった。カポのおかげで移調の概念を理解した気がする。そうしているうちに、クラシックギターでは何ともダメらしいと言うことがわかってきた。スチール弦に替えたり、黒い下敷きを切ってピックガードとして貼り付けたりしていたが、どうにも格好が良くないし音が違う。やっぱりフォークギターを買わねば!




6.シンシア

 ど田舎に住む自分にはあまり直接は関係無かったが、70年安保闘争からつながっていたベトナム反戦、学生運動にからんだフォークソングブームがあり、「戦争は知らない」とか「友よ」、「まぼろしの翼とともに」、「遠い世界に」などを、みんな集まっては歌っていた。拓郎がブレイクしたのもこの頃。立て続けにアルバムを出し、あっという間にスターになってしまった。当時のいわゆるフォークシンガーはみんなそうだったが、「テレビに出ない」のが一種のステイタスで、それが却って人気を煽っていた。
 その反面、「アイドル路線」も同時進行していた。小柳ルミ子(瀬戸の花嫁)、南沙織(17歳)、天地真理(水色の恋)、それぞれに好きだったがやっぱり南沙織かな?同じ歌を20年後くらいに森高千里がカバーして、それも良かったがやっぱりシンシアのがいちばん。
 学生寮の机の横に天地真理の特大ポスターを貼り、毎朝それにキスしてから登校するヤツがいた。「スター誕生」の全盛期で、山口百恵、桜田淳子、森昌子が立て続けに出てこれまたヒットを飛ばした。
 今こんな事を書いていて気付いたのだが、自分の頭の中で、音楽は音楽でも、百恵ちゃんなどアイドル系の歌と、拓郎などのフォーク系の歌では、記憶されている場所が全く違う気がする。僕らにとって、アイドル系は「エンタテイメント」だったが、フォーク系は「文学」みたいなものだったのかも知れない。




7.FG-180

 ちょっと話題が外れすぎた。ギターの話に戻ろう。
 Gutsとかヤングセンスっていう音楽雑誌が創刊になったのがこの頃で、ギター奏法の特集が頻繁に載った。練習用のTAB譜もよく載っており、これにはかなりお世話になった。学生寮の隣室に住んでいた友人T(彼は今でも最も親しい友達の一人)が持っていた、当時珍しかったステレオカセットデッキは、僕に拓郎を聴かせてくれるために存在したようなものだ。Tのテープを通じて、「イメージの詩」も「マークU」も「今日までそして明日から」も、当時あった拓郎の曲はほとんど全部聴いた。
 スリーフィンガーやカーターファミリーも覚えたが、さすがにクラシックギターではどうにもならなくなって来たので、2年の夏休みに肉屋の配達のバイトをして、やっと念願のフォークギターを買った。当時、友人Tが持っていたのは、ヤマハFG―150という、ちょっと小振りのギターだったので、あまり深くは考えず、ボディが大きくてひとつ上のFG―180を選んだ。このモデルは後に名器と呼ばれ、ゆずが使って有名にしたが、もちろんこの当時は知る由もない(ゆずの2人もたぶんまだ生まれていない。)ハードケースが欲しかったが予算の関係であきらめた。
 このギター、残念ながら今はもう手元には無い。10数年後、上の娘がハイハイを始めたころ、倒してネックが折れてしまった。今から思えばリペアに出せば良かったのだが、もうダメかと思って粗大ゴミの日に出してしまった。返す返すも勿体無い。)




8.ライブ

 それからというもの、生活が変わった。授業中は机の下でフィンガーリングの練習。寮と学校は5分くらいの距離だったので、授業が終わったらすぐに自室にとって返してギターを手にした。加川良、遠藤賢治、アリス、かぐや姫、井上陽水、六文銭、サイモンとガーファンクル、ニール・ヤング、何でも弾いてみたが、やっぱり一番数多く歌ったのは拓郎だろう。友人Tがリードをとってくれたので良く2人で練習もした。
 こうなって来ると人前で歌ってみたくなるのは必然、文化祭と寮祭の舞台にはほとんど全部出た。Tと二人でやることが多かったが、その写真が無い。下の写真はたぶん1973年夏の寮祭で、珍しくソロで歌うたぶん17歳の自分であるが、なんとカワイイこと!このとき歌ったのはたぶん「雨が空から降れば」と「伽草子」だったと思う。
近くの女子大や高校の文化祭でも歌わせてもらったりした。




9.

 3年になって、Iがメンバーに加わり三人になった。Iは僕よりも断然歌がうまかったので、必然的にボーカルは彼が担当することになった。ギターが3本あってもしょうがないし、バンドとして音を厚くしたかったこともあり、自分がベースをやることにした。歌には若干未練があったが、Iの歌は今思ってもプロ並みだったので、自分で歌うのはあきらめた。
 今度はベースを買うために、なけなしの金を手に、Tと2人で和歌山市内の楽器屋さんをまわって安い中古を探したが、資金不足でなかなか買える物がない。結局、別のバンドの知り合いからグヤトーンのお古を安く譲ってもらうことになった。ベースアンプを買う金も無かったので、特大スピーカが付いたオンボロのラジオを改造して使った。ライブではさすがにこれでは音量不足なので、レンタルのアンプを借りることにしていた。

 バンド名は「天下の御法度」といった。レパートリーにはバンジョーが入る曲もあったので、カントリーに通じる「テンガロンハット」にしようとしていたが、Tの発案で少しもじってみた。このバンド名は今でも最高だったと思っている。三人でいったい何回舞台に立っただろう。オリジナルも多々あったが、ライブでは一般受けを狙って、アリスやかぐや姫の曲が多かった。体育館いっぱいの観客が僕らの演奏に合わせて手拍子をしてくれるときの満足感は、何物にも代えがたいものがあった。

 学内のロックバンドと一緒に、「99円コンサート」とかいうのにも出た。寒い日だった。この時は出番が最初でぶっつけ本番、マイクの調子が悪い上に、モニタースピーカなどは当然無く、自分の音が全く聞こえないというアコギバンドにとっては悲惨な状態で、メロメロのまま終わってしまった。三人とも落ち込み切って、雪のホームで帰りの電車を待っていたら、向かいのホームにいた、たぶんコンサートに来てくれてた女の子たちが、「さよーならー!」って手を振ってくれた。ちょっと救われた気がした。
 やがて4年も終わりに近づき(注:書き忘れていたが僕たちは高専だったので5年生まで)、海から吹きつける冷たい風にせかされるように、僕たちの周りは、リクルートや進学で何となくあわただしくなってきた。「フォークソング」はいつの間にかユーミンに代表される「ニューミュージック」と呼ばれ始め、生ギターで歌うようなものではなくなっても来ていた。周りの風景は以前とほとんど変わってはいなかったが、いつまでもこんなにしてはいられない、本当に楽しい季節はもう終わり、みたいな気配が僕たちを包もうとしていた。
(この文体、当時読んだ北杜夫の「青春記」の影響非常に大)




10.潮騒

 やはりこの時代の音楽シーン?を語るのに、百恵ちゃんは避けて通れない。「スター誕生」決勝大会の頃からファンだったが、いわゆる「中3トリオ」の中ではその存在感は特別だった。友人のテープからダビングしてベスト版を作り、英会話の練習用に買ったはずのカセットデッキでそればっかり聴いていた。少し後になるが、アルバム「Golden Flight」(たしかロンドン録音)と「花ざかり」は、彼女の最高傑作だと思っている。
写真は映画「潮騒」のスチール(こんな写真、今でも持ってるって娘に知れたらどうしよう・・・)であるが、この少女と、ついこの間、写真週刊誌にスクープされたおばさんが同一人物だとは、どうしても思えないのである。(自分こそ鏡を見てみろ!と怒られそうだが・・・)




11.海に沈む夕陽(もしくは落陽)

 学生生活最後の一年は、色んなことがあったが、ライブなどからはほとんど縁が無くなっていた。学内の人気バンドは完全にロックに変わっていたし、何よりも髪を切って就職試験を受けなければならない僕たちにとって、バンドは既に過去のものになりつつあった。Tとはたまに酒を飲みながらギターを弾き、古い歌を歌ったりすることもあったが、たいがいは余程ヒマなときに一人でぼそぼそと弾くくらいになってしまった。こうなるとベース担当というのは辛いもので、一人でやっても何の面白みもない。苦労して覚えたフレーズもどんどん忘れていくばかりだった。
写真は、結局卒業まで過ごした学生寮から海側の風景。晴れた日には遠く四国が見えたが、やはり一番良かったのは夕陽だった。秋から冬にかけて、海に沈む夕陽は、それはそれは綺麗で、ほとんど毎日のように海岸まで散歩に出かけた。夕陽に向かってバカヤローって叫ぶ学園ドラマのクサいシーンも、ここなら許せる。

 


12.そして神戸

 景気が良い時代だったので、就職は割合簡単に決まった。やっと学生寮から抜け出せたと思ったら、今度は新入社員寮(なんと4人部屋だった!)の窮屈な生活が始まった。入社してしばらくの間は、新入社員研修や工場実習、それから全国を渡り歩く販売店実習などで、ギターやベースに触れる機会など全く無かった。唯一触れることのできる音楽(と言えるのか?)は、あちこちの先輩達が連れて行ってくれる飲み屋のカラオケだった。演歌を歌うのは大嫌いだったが、慣れというのは不思議なもので、繰り返しているうちにだんだん違和感が無くなる。いつしかクールファイブが十八番になった。




13.時代

 そうこうしている内にようやく勤務先も決まり、芦屋にあった寮(今度は2人部屋)に移ったものの、同僚にはギターを弾くやつもおらず、重ね録音ができるテープデッキを買って、ギターとベースだけの曲作りなどを細々とやっていたが、先輩に誘われて始めたテニスのほうが楽しくなってしまった。なにしろこの頃は第一次テニスブーム、新入女子社員の8割がテニス部に入り、会社のテニスコートに行けば、ミニスカの女の子がわんさといた。遊びに行くのは三宮とか神戸が多く、「Lost City」っていうC&Wの店にブルーグラスを聴きに行ったり、社員寮の祭りなどでちょっとバンドの真似ごとをしたこともあったが、だんだん自分で演奏することからは離れてしまった。

 この頃、ヤマハのポプコンで中島みゆきが鮮烈なデビューをした。ニューミュージックと呼ばれた、ちょっとハイソでイージーな曲に慣れかけていた耳に、シンプルなコード進行のギターと、魂を感じさせる歌詞が本当に新鮮で、ちょうど拓郎を初めて聴いた時のような感じだった。久しぶりにアルバム(LPレコード「私の声が聞こえますか?」)を買った。「時代」っていう歌は、ようく聴いてみたらそれほど内容のある歌詞ではないのかも知れないが、その頃は本当にその歌を聴けば勇気づけられるような気がして、ずいぶん聴いた。ほとんど同じ頃、山崎ハコもかなり好きだった。「サヨナラの鐘」とか「飛びます」とか。ひょっとしたら自分ってネクラだったのか?GUYATONEのエレキベースもまだ持ってはいたが、一人ではどうしようもない。彼女たちの曲はギターが比較的易しい曲が多かったので、夜とか、雨でテニスに行けない日曜日とかにはよく弾いたものだ。
今、ジャケットの写真をスキャンしようと思って、押入も中を探したが、「私の声が聞こえますか?」のLPがどうしても見つからない。確かに持っていたはずだが、誰かに貸したままになっているのだろうか?「みんな去ってしまった」はあったので、そっちを載せることにする。みゆき殿にもこんなかわいい時代が・・・




14.帰らざる河

 前後するが、もう一つ忘れていた。古い映画(確かマリリン・モンローの「帰らざる河」だったと思う。違うかも?)でアメリカ西部開拓時代の人々が陽気に歌うのを見て、フィドルと呼ばれるバイオリンとバンジョーやギターの組合わせもいいなぁと思っていた。NGDB(ニッティグリティダートバンド)という、ちょっとモダンなカントリー系バンドが流行っていて、何となくそれ系がやりたくなった。Tが既にバンジョーを持っていたので、自分はバイオリンを買ってみた。バンジョーは、Tに教えてもらって簡単な曲2〜3曲は弾けるようになっていたし、ギターからベースへの切替えも割合早くできたので、バイオリンも何とかなるだろうと高をくくっていた。甘かった。スズキメソッドの本を買って来て、人目(耳?)をはばかりながらどれだけ練習しても、全然きれいな音が出せない。正確な音程も取れないし、ビブラートも全くかけられない。半年ほどやってとうとうあきらめた。やっぱりバイオリンの「独習」なんてそもそも無理なのだろうか?この一件で「フレットレス」楽器がちょっとトラウマになった。
(写真は、モンローと、今でもまだ持っている、ボウに塗るための松ヤニ。)

   


15.ビバ・アメリカ

 続いてディスコ(今はクラブって言うのね?)ブームが来た。自分には似合わないとは思ったが、合コン(これも、この頃は合コンとは言わなかったなぁ、集団デート?)の二次会は必ずディスコと決まっていたので、女の子にステップを教えてもらいながら必死で踊った。このころの「ディスコ」は、後の「マハラジャ」のようにお立ち台の上で踊る女の方などおらず、みんな健康的?になりふりかまわず踊っていた。「金曜夜、女性は入場無料」のシステムがあったので、それを口実に同僚が同期の女の子とかをよく誘っていた。自分は付いていくだけだったが、雰囲気は充分楽しかった。梅田の「クレージーホース」、心斎橋の「アニーズイン」(アンルイスの店だと言ってた)、よく行った店だが今はもう無いのだろうな。曲は「ビバアメリカ」と「ハッスル」くらいしか覚えていない。




16.磔磔(たくたく)

 彼女ができたばかりの頃は、京都のライブハウスにも毎週のように行った。「磔磔(たくたく)」とか「サーカス&サーカス」、「拾得」。あー、他にもいっぱい店があったが、ほとんど名前も忘れてしまった。色んなバンドが聴けて、テーブルチャージが5〜600円、安い水割りと軽食だけで何時間も過ごせるのは有難かった。「磔磔」は比較的有名な人が出ていたけれど、「サーカス&サーカス」などはアマチュアが多かった。でもみんな喋りも演奏も素晴らしく上手くて、さすが京都!って思った。
今でも覚えている、「サーカス&サーカス」でのあるバンドのトーク。
「こないだなぁ、枚方でライブやってん。いつもと違うて、えらいぎょうさん客入っとる思たらな、ほとんど菊人形やったわ。」(大阪人しかわからんやろなぁ?)
 このギャグ、いつか自分のライブで使ってやろうと思っていたが、菊人形展も去年で終わりだったそうな・・・
こうして書いていると、何か自分がものすごく遊び人だったような気がしてきた。確かに、初めて都会に住んだ嬉しさと、何もない海辺に建っていた男ばっかりの学生寮で5年間も過ごした反動からか、賭事以外のたいがいの遊びは、一応やってみたような気がする。
尚、この時の彼女にフラれて以来、京都のライブハウスには一度も行っていない。




17.12ページの詩集

 「木綿のハンカチーフ」のイメージが強すぎて、舌っ足らずの声でセンチメンタルな歌ばかりの感があるので、ミーハーと馬鹿にされるかも知れないが、このころの太田裕美も良かった。同僚が熱烈なファンで、頼みもしないのに「12ページの詩集」と言うLPをテープにダビングしてくれた。期待しないで聴き始めたら、これがなかなか。それぞれの歌がそれなりに意味を持っていて聴きがいがある。実は今でもこっそり聴いているが、特に「湘南アフタヌーン」が良い。最後のフレーズの「悲しみが透きとおる」はなかなか書けないと思った。




18.極光

 結婚したばかりの頃は、女房の趣味でさだまさしをよく聴いた。。(「精霊流し」は名曲だと思っていたが、所さんが「精霊戻し」でパロってから素直に感動できなくなった。罪なヤツめ!)さだまさしの市民ホールでのコンサートに行ったり、アルバムを次々に買うようになったのはやはり女房の影響である。同じ頃、久しぶりにTに会うと、演歌ばかり弾くのでどうしたのかと尋ねたら、「彼女が演歌好きだから」と言うことだったし、今のバンド仲間のMも、最近結婚した途端に、それまでどれだけ誘われても頑としてやらなかったテニスにハマったり、やはり相方(あいかた)の影響は大きい。
この頃聴いた彼の曲では、「極光(オーロラ)」が良かった。オーロラに夢中になったあまり、アラスカで飛行機のプロベラに巻き込まれて死んでしまう夫の話なんて、いったいどうしたら書けるのだろう?と思ったのでいろいろ調べていたら、どうも実話が元になっているという話。星野道夫さんというアラスカを撮り続けたカメラマンが、1996年にカムチャッカで事故のために亡くなったらしい。でも、「極光」が入ったLP「夢の轍」を買ったのは1982年。これっていったい???




19.いとまきのうた

 子供が生まれてからしばらくの間は、自分史は春だが、音楽史としては冬の時代が続く。仕事も滅法忙しくなってきていたし、夜遅く帰ると子供が寝ないで待ち構えている。疲れていても「おとーたん、おンマちて」とか言われると、ついつい背中に乗せて部屋を何周もしてしまうという有様だったので、ギターやベースを触る時間など、どう工面しても出てこない。当然、テニスもお預けとなった。まったく、この頃の僕たちが子供につくす様子を誰かがビデオにでも録っていてくれていたらと思う。それを見たらうちの娘達も、もう少し優しくなるのではないか?たまに車で出かけるときにカーステで流す音楽は、ほとんど童謡だった。「いーとーまきまき」の歌もこのころ覚えた。(この間、娘と話していたら、「いーとーまきまき」の歌、娘は大嫌いだったそうである。最後の「あかいろうそくゆれて あかいろうそくきえて・・・」のところが、救いようがないくらい悲しかったそうな・・・)
 そんなある日、家に帰ると、ギターのネックが折れていた。女房によれば、よちよち歩きを始めた娘が触って倒して、ネック部分がタンスの角にぶつかったのだとか。あらら、と思ったが不思議にショックは無かった。たぶんギターよりも子供のほうが可愛いかったのだろう。(当たり前か?)
 そのまま修理に持ち込めばまだ何とかなっただろうが、適当に木工ボンドでくっつけて使っていたらまた折れてしまい、あきらめて「大型可燃ゴミ」の日に捨ててしまった。友人Tは、あのFG―150をまだ持っているそうで、今から思えば10代の自分の分身、折れたままでも置いとけば良かった。




20.やっぱすっきゃねん

 大阪弁の歌は、古くは「いとはん」とか「河内のオッサンの歌」とか、どちらかと言えばゲテモノ的なイメージがあって、あんまり好きではなかった。そもそも大阪弁そのものがゲテモノ的だと思っていたし。でも、このころ聴いた「悲しい色やね」と「やっぱ好きやねん」は、その認識を新たにさせてくれた。これだけ大阪弁とメロディー、曲調がぴったりハマった歌は珍しい。もし、この詩を標準語に直したら気障すぎて聴いていられなくなるはず。「大阪の海って悲しい色だね」(赤面・・・)「やはり好きなんだ・・」(うわー・・・)


21.オリビアを聴きながら

 結婚して5〜6年ほどは賃貸に住んでいたが、今の家に引っ越したときに、「バンマス浜ちゃん」と知り合った。家が斜め向かいで、嫁さん同志が中学の同級生という不思議な縁である。子供の年も近かったので、お互いの家に遊びに行ったりしているうちに、どっちからともなくバンドやろうと言うことになって、お互いの嫁さんをも引き込み、もう一人近所の奥さんも誘って5人で始めた。練習は毎週土曜日夜、浜ちゃん家の2階でやった。当然ホントのドラムは無理なのでシンセドラム(パッド)だった。特にジャンル指向がある訳ではなく、ボーカルが女性だったので、杏里、竹内まりや、ドリカム、小比類巻かほるなどをやった。なかなかうまくは出来なかったが、終わってからみんなで遊ぶUNOも楽しかった。女房がキーボードだったが、彼女は譜面がないとまったく弾けないため、ピアノ譜が手に入らない曲は自分が耳コピして譜面を起こさないといけなかった。あの頃パソコンとインターネットがあったら、この作業ももっと楽だったろうに。中古だが、音色作成シンセ機能付きのキーボードも買った。(それにしてもこの杏里、若!)




22.あの夏の花火

 トライした曲の中で一番好きだったのはドリカムの「あの夏の花火」である。田舎に住んでいる頃から、毎年近くの魚港で行われる花火が大好きで、何があっても見に行った。仕事で新潟に出張した時も、わざわざ長岡の大花火大会に日程を合わせたりした。いつか誰かと二人で花火を見に行くのが夢だったが、これが実現するのはずっと後のことになった。さてドリカムの「あの夏の花火」、この曲はベースがかなり難しくて、だいぶ練習したが結局最後まできっちり弾けるようにはならず、難しいところはルートだけ弾いてごまかしていた。この時覚えたおかげで、今でも自分のカラオケでのレパートリーに入っている。オッサンが歌ってもウケるはずはないが・・・
数あるドリカムのアルバムの中でも、この曲が入っている「Swinging star」が一番だと思っている。ややマイナーだが「眼鏡越しの空」も非常に良かった。
そんなこんなで、このバンド、2年間くらいは続けただろうか?ボーカルの女性が引っ越してしまったのを機に、残念ながら活動を止めてしまった。




23.Sound Blaster

 Windows95が出たのをきっかけに新しいパソコンを買った。それまでもFM―77っていう8ビットのパソコンは持っていて、貧弱な音源(FM音源×3、PCM音源×3の計6音)で打込みの真似ごとをやっていたが、FMV(+サウンドブラスター)になったら、何と64音も使えるようになった。打込みソフトも格段に使い勝手が良くなり、フルオーケストラの曲でも出来るような気がした。バンドが出来ないかわりに、これからしばらくの間は、作曲まがいの打込み音楽に傾倒することになった。
昔、「天下の御法度」時代に作った曲のリメイク打込みから始めたが、やり始めて気がついたことは、「どんな機材やソフトを使っても、才能以上のものは出来ない」ということである。ベースのフレーズ入力ひとつとっても、自分で思い付く(あるいは自分で弾ける)ものしか作れないし打込めない。もちろん自分では演奏出来ないブラスやストリングを、何かを参考にしながら適当にバックに配置することはできるが、これでは自分の創作とは言い難い。結局才能なんだなあと思った。いくら僕たちが小室と同じ打込み機材を手にしても、ヒット曲が書ける訳では無いのである。




24.打ち込み

 パソコンで音楽を扱う、いわゆる「打ち込み」用のソフトでは、パートごとに音色を指定し、マウスを使って画面上の五線紙に音符を置いていってやれば、その通りにパソコンが演奏してくれるようにできている。ドラム(リズムパターンがあらかじめたくさん準備されていることが多い)を入れ、ベースを入れ、ギターやキーボードその他のパートを打ち込めば、割合簡単にカラオケが出来上がる。根気さえあれば、市販のフルスコアをその通りに打ち込んでやれば、そこそこの出来にはなる。昔のアナログシンセだと、矩形波とかサイン波とかを組み合わせながら、やれアタックがどうの、ベロシティーがどうのって、非常に面倒な所作をして、やっと単音の音色を作り出していた。デジタルになったら、プリセットされている音色を指定するだけでバイオリンもピアノも、尺八の音だってすぐできてしまうのだから恐ろしい。
 楽譜通りに打ち込めばそれなりに聞こえる楽器もあるが、ギターは難しい。特にアコースティックギターの音をそれらしく聞こえるようにするのは本当に難しかった。絵に示した楽譜はスリーフィンガーの典型的なパターンだが、ギターの音色を指定してこのまま打ち込んでも、ポコポコ音が途切れてまったくギターの音に聞こえない。詳細を書くと何ページあっても足りないので割愛するが、1つ1つの音符の長さとか強さを、実際にギターを弾いた時の鳴り方に合わせて細かく設定してやる必要があって、試行錯誤を繰り返しながら1小節作るのに一晩かかったこともあった。




25.校歌

 このころ、田舎の小学校が統合で新しくなって、新しい校歌を公募していることを知った。僕が卒業した頃から全校生徒100人程の小さな学校だったが、過疎が進んで近くの3校が一緒になるとのことだった。卒業した小学校なので元の校歌も好きだったし、ダメもとでそれに応募してみようと思った。小学生だった娘にも協力してもらって、歌詞も含めて一ヶ月くらいで作り上げ、MIDIから落としたテープと楽譜で応募した。マーチのリズムに、歌いやすいメロディーと覚えやすい歌詞を意識し、ハーモニカやリコーダーで演奏しやすいようにハ長調にした。
 しばらく経って選考委員会から電話があった。委員長の校長先生いわく、「校歌としては歌詞がイマイチだが曲はいい。採用になりそうな別の方の歌詞があるので、あなたの曲をその歌詞に合うように一部変えて応募し直してもらえないか?」




26.校歌の続き

 その歌詞をFAXで送ってもらったところ、確かに曲の3分の2くらいは字数が合っていてそのまま使える。ただ、僕の歌詞が易しい口語だったのに対して、その歌詞は昔ながらの文語体、「選考委員会」の平均年齢が想像できた。やめようか?とも思ったが乗りかかった舟、サビ以降を作り変え、またテープに入れて送った。
間もなく、何と「採用」!の知らせが届いた。新校舎の落成式と一緒に校歌のお披露目式が催されることになり、招待状も届いたが、残念ながらちょうど出張と重なって出席出来ず、父に代理で出てもらった。後でビデオを送ってもらった。自分の曲を大勢の子供たちが歌ってくれるというのは、なかなか感動ものだ。その後、作曲料として「教育委員会」から1万円が送られてきた。これはなかなかお金に代えられるものではない。今でも、たまに帰省した時に近所の店などに行くと、店のおばちゃんに「校歌作ってくれはった人やね!」などと言われ、面映ゆい気分である。もし田舎に住んでいたら、自分の子供とか孫が歌ってくれたのかも知れないと思うと、変な感じだ。これが平成9年(1998年)の話。
 校歌(Midi)
(蛇足)その後数年して、今度は中学校も別の学校に統合されることになり、これで僕の出た幼稚園、小学校、中学校が全部無くなってしまったことになる。中学校の閉校式には出席し、歌い納めの校歌を思い切り歌って来た。こんな事が起きるのは田舎だけかと思っていたら、最近では大阪でも閉校になる小学校が多くなっているらしい。少子化・・・・




27.Hama-Band 誕生

 さて、こうしている間にも、我らが浜ちゃんはコツコツとバンド活動を続けていた(らしい)。テニスはたまに一緒にやっていたので、バンドの話になった時など、「遊びにけーへん?」と誘われていたが、やってる曲がハードロックっぽかったので、ちょっと引いていた。
 しばらくして、キーボードの人がやめてしまったとかで、誰かピアノが弾ける人を探してほしいと頼まれた。ちょうど会社で一緒に仕事をし始めていたM嬢が、ピアノとかバンドをやってたことがあると聞き、浜ちゃんに紹介することになった。初めてT駅前で待ち合わせしたときには、お互い想像していたのと外見がまったく違っていたので、なかなか見つけられなかったという話を後から聞いた。
 練習の様子は彼女からもいろいろ聞いていたが、そのうちにベースも居なくなったらしく(たぶん、練習そっちのけで続く浜ちゃんの喋りに、本格指向のメンバーがついてこれなくなったのだろう・・)、今度は正式に(強引に?)お呼びがかかった。とりあえずアコースティック指向で、クラプトンの「アンプラグド」のコピーからやると言うので、乗った。(いや、乗せていただいた。)ドラムのKinちゃんもちょっと前に参加したばかり。「HAMA―Band」オリジナルメンバーの始まりである。たしかこれが1999年のこと。
(目隠しするとみんな容疑者に見える・・・)




28.Unplugged

  エリック・クラプトン「Unplugged」。ここ10年程の間で一番よく聴いているCDを挙げるとしたら、間違いなくこれである。台湾出張のついでに1000円くらいで買った。この値段、別に海賊版という訳ではなくアジアではこれくらいが普通、日本が高すぎるのである。昔のレコードならば100回も聴けば溝がすり減って、シャリシャリいい始めたものだが、CDはそんな事もなく、ほぼ無限に聴けるのだろう。中でも「Nobody knows・・」「Layla」「Alberta」「Tears in heaven」の4曲は、他のパートも覚えてしまうくらい聴いた。
 その中の「Tears in heaven」、初めて聴いた時には最初の歌詞「もし天国でお前に会ったら、お前は僕の名前がわかるだろうか?」から、男と女の歌、それもピロートークみたいな甘い愛の歌だと思っていた。しばらく経って、それが、幼くして事故で亡くなった自分の息子へのレクイエムだと知り、あらためてじっくり聴いて、やっと全ての歌詞の意味を理解した。感動した。英語の歌詞で感動したのは中学の時に聴いたビートルズ以来だった。「自分は老いさらばえて天国に行くが、お前は子供の時のままなのだろうか?」この言葉が、子供を持つ親として胸に響いた。




29.クラプトン続き

 クラプトンは、実を言うとそれまであまり真剣に聴いたことがなかった。友人Tが信奉していたので、「クリーム」くらいは知っていたけれど、もともと「メロディーと歌詞、どちらが歌にとって大事?」と聞かれれば、迷わず歌詞!と思っていたし、英語含めて外国語の詞は、どれだけ辞書を引いても、結局ネイティブでない者には、本当のニュアンスは理解できないのでは?とも思っていた。それから、クラプトン=「エレキギターの神様」みたいな先入観があって、アコースティックギターをあんなに弾ける人だとは、恥ずかしながら全然知らなかったのである。
 浜ちゃんの影響でよく聴くようになったものの、今でも一部の曲を除けば詞を理解している訳ではない。ただ、「スローハンド」と呼ばれる彼のギターワークを、一種の職人芸(アート)として楽しめるようになった。これは浜ちゃんのおかげである。もっとも、いくら聴いても真似ができる訳ではないが。
 このアルバムにも入っている「Bellbottom blues」や「Wonderful tonight」みたいなシンプルな曲もものすごくいい。(ベースがカンタン!というのも好きな理由のひとつ・・・)




30.キャンプ&ライブ

 同じ頃、会社の友人たちともキャンプやテニスで盛り上がっているうちに、こっちでもバンドやろうということになって、しばらくの間、掛け持ちで忙しかった。友人と言っても20代の人ばかりだったので、最初にやった曲は、「センチメンタル」(ゆず)、「チェリー」(スピッツ)、「あの紙ヒコーキ曇り空わって」(19)の3曲。昔風に言えばフォーク系の曲だったので、簡単かと思ったらそうでもなくて。ただ、これらの曲をコピーして、けっこう頑張って練習したおかげで、それまで弾いたことのなかったフレーズを覚えた。ドラクエ風に言うと、ようはレベルがひとつ上がった。
 彼らとは夏と春のキャンプごとに集まって、キャンプ場やロッジでこじんまりとライブをし、その度に課題曲を3曲ずつ増やしていった。一番難しかったのは「アゲハ蝶」(ポルノグラフティ)、今はたぶんもう弾けないが・・・。練習は会社の「騒音測定試験室」でもやったりした。この部屋、完全防音のため音漏れをまったく気にする必要がない。ここに(無届で)楽器を持ち込んだのは、たぶん僕たちが最初で最後だろう。
(写真は木之本「いこいの里」ロッジでのライブ風景)




31.「音楽」19

 (タイトルがちょっとややこしくなった・・・)
 「音楽」(19)、これもよく聴いた1枚。最初はどうってことない人達と思っていたのに、耳コピのために何度も何度も聴いているうち「なかなかええやんか」ということになった。このCDも台湾で買ってきたもので、日本のものには入っていない曲やカラオケまでついていて、お買い得感があった。今は解散してしまった彼らの、いちばん輝いていた時代と言えるのだろう。「夢を描いたテストの裏」っていう歌詞に、年甲斐もなく自分の姿を重ね合わせてしまった。ずっと昔、テスト中の暇つぶしにそんなことをした記憶がかすかにある。
 友人Tも、その昔、数学か物理のテストの回答がまったく書けなかったので、白紙で出すのも何だしと、回答欄いっぱいに自作の詩を書いて提出したことがあるらしい。それを見た先生がどんな反応をしたかは聞きそびれたが、留年しなかったところを見ると、いくばくかの点はくれたのだろう。
 そうそう、当時中学生だったうちの娘が彼らのファンだったので、娘と話を合わせるためにも、このアルバムはかなり役に立った。尚、「音楽で話そう」は、自分のホームページのタイトルとしても(もちろん無断で)使わせていただいている。




32.約束の橋

 この会社のメンバーとは、キャンプ、スキー、テニス、自転車琵琶湖一周等、色んなことを一緒にやらせてもらった。感謝感謝。メンバー同志、KとHが結婚したときには、メンバー全員で梅田のホテルに楽器を持ち込み、披露宴のトリで「約束の橋」大合奏をやった。キーボードX2、ギターX2、ベース、ドラム、サックス、マラカス、タンバリンの大部隊。
 新郎新婦は歌ったりしないのが普通のはずだが、この時はKが主役で歌った。かなりウケた。出番が宴のいちばん最後だったし、100人近い人の前での演奏はずいぶん久しぶりで、おまけに演奏前のスピーチも頼まれていたので、せっかくの宴でまったく酒が飲めなかったのには参った。
 それから間もなく、女性メンバー3名が次々と結婚して、カジも遠くに転勤になってしまい、「グリーンパーク山東」のトレーラハウスライブを最後に、この「EssBand(いいっすバンド)」の活動も終わりを告げた。




33.ダブルH

 さて、またHAMA―Bandに戻ろう。一時、もう一人ベースのメンバーが合流、自分はサイドギターにまわり、やっと長年の念願、ギター担当になれるか!と思ったのも束の間、そのお方、なんと北京に転勤になってしまい、結局またベースに逆戻り。まあ、ギターは昔のように弾ける訳はないので、今さらギターというのもちょっと無理な話ではあった。
 あるベーシストのサイトを読んでいたら、「未練たらしくたまにギターなんかを弾いてるべーシストは絶対にホンモノになれない!」と書いてあった。ホントかも知れない。(トホホ・・・)
 そのまま、かなり長い間4人でやっていたが、2004年?頃、市内の楽器店のHクン(指弾きメチャうま)や、浜ちゃんの奥さんの知り合いのHさん(キーボーアドリブ天下一品)(両方ともHさん。なおかつこの二人、誕生日、血液型、干支、ファーストネーム、つまりイニシャルまで同じということが最近判明して大騒ぎ)が加入し、6人の所帯になった。M嬢(もう「嬢」ではないか・・・)が産休で休んでいた時以外は、だいたい揃ってやっている。HクンのエレキとHさんのストリング・キーボードのおかげで、レパートリーにも厚みが増し、「Bellbottom blues」や「Change the world」なども、なかなかいい感じでできるようになった。
(写真はバンマス・浜ちゃん、レコーディング中の熱唱)




34.マイベース

 自分はYAMAHAの安物エレキベースしか持っていなかったので、バンマス・浜ちゃんには、FenderやらMoonやら色々のベースを貸してもらって弾いていた。TOKIEさんファンの私としては、どうせ買うならアップライトのベースを買いたいと思っていたけれど、ちょっと良い物になるとメチャメチャ高くてとても買えない。楽器屋でいろいろ触っているうちに、ひょっとしたら自分で作れるのではないか?という気になった。インターネットをフル稼働して資料や材料を集め、ほぼ1年がかりでかなり苦労しながら、それでも一応できた。詳しいことは「ベース作りました」に書いたのでここでは省略。
 今はこのベースがメインとなっていて、エレベを弾くのは、テニスのしすぎで疲れて、アップライトが重すぎて持って行く気がしないときか、会社からの直行で練習に参加のときに限られている。引っ越しが済んで落ち着いたら、今度は中が空洞になった、もっと軽いヤツを作ってみようかと思い始めている。




35.魔法の言葉

 2004年の暮れには、レストラン借り切りのKinちゃん結婚披露パーティーでも、みんなで演奏させてもらった。この時はKinちゃんの友達のブラバンの人たちとの合同だったので、選ばれた曲は「魔法の言葉」(D.A.I.やっけ?)っていう、HAMA―Bandとしてはまったく初耳で勝手が違うものだった。おまけにキーがブラス系のE♭、ギターがメインの曲の場合、まずE♭は無いので、慣れないコードで、かなり苦労した。全員(10人くらい居た?)で合わせたのは1回きりで、当日もぶっつけ本番だったけれど、それでも割合うまく行き、めでたしめでたしとなった。場所が曽根崎の真ん中だったので、車ではかなり遠い駐車場までしか行けず、アンプや重たいベースを抱えて繁華街を何往復も歩いたことがやけに印象深く記憶に残っている。それなりに苦労はしたけれど、ブラスとのセッションもなかなかいいものだと思った。
 この時の写真もアップしたかったが、みんな僕たちの演奏に酔いしれていて(ホンマかいな?)、誰も写真を撮っていなかったらしく・・・




36.Live2005

 2005年1月、成人式の日に市内のライブハウスに出た。この時は何となく準備不足で、残念ながらそんなに満足の行く演奏が出来なかった。Kinちゃんは出られなかったし、ピアノのM嬢も帰省中で不参加、ドラムは替わりにメチャうまの女性が入って引っ張ってくれたが、18番の「Nobody knows・・・」や「Alberta」にしても、やはりうちのレパートリーは生ピアノが無いとダメだなあと思った。
 このライブについては急に決まったこともあって、チケットを配ったり出来ず、観客は身内だけだろうと思っていたら、僕たちの次に出演するバンド目当ての若い女の子でフロアはいっぱい、かなりあせった。もともと僕たちの曲は女子高校生にウケるはずもなく、ちゃんと聴いてくれるかどうか非常に不安だったが、一応みんな静かに聴いてくれたし、1曲ごとに拍手もしてくれたので安心した。
 写真はそのときのものだが、右側にいたHさんとHくんが、カメラ位置の関係で写ってなくて、申し訳ないと思う。何にしても久しぶりのライブ、楽しかった。




37.フレットガード

 やっと引っ越しが済んだ。バタバタしていたため、あまりオリンピックも見れなかったが、今朝、荒川静香さまが、唯一のメダル、それも金メダルを取った。いやあ良かった良かった!
 さて、一ヶ月以上に渡って続けた「音楽」シリーズも、ようやく終わりに近付いてきた。最初は10回くらいで終わるつもりだったが、古いことを思い出しながら書いているうちに、次々に書くことが出てきて、こんなに長くなってしまった。書いていて思ったのは、やっぱりバンドとか音楽を通じて、知り合いがいっぱいできたなあと言う事。気障な言い方をさせてもらえば、人間関係、人と人との関わりは、生きるための手段や条件などではなくて生きることそのもののような気がしていて、ギターや音楽と関わっていなかったならば、たぶんこれらの人とは知り合えていなかっただろうと思うと一種不思議な感じがする。いろいろバンドの真似事をやって来たが、いちばん長く続いているのが今のHAMA―Band。浜ちゃんの定年退職まではあの音楽室は使わせてもらえそうだし、「家を建てる時は地下室にスタジオを作る!」というお互いの公約は果たせそうには無いけれども、将来は、どこか片田舎の古家にでも集まりながら、生きている限り続いてほしいと思っている。 写真はHクンにいただいたガードを付けたD―1。ちょうど引っ越しだったので非常にありがたかった。




38.ヴァイオリン

 引っ越しで屋根裏を片付けていたら、あのヴァイオリンが出てきた。あれ以来音を出したこともなかったので、前の引っ越しの時に屋根裏に放り込んで、その後18年そこにいた訳だ。
 実を言うと完全に忘れていた訳ではなくて、ごくたまに不要荷物の出し入れのために屋根裏に上がった時には、視線の片隅に引っ掛かってはいた。ただ例のトラウマからか、手に取ってみる気は起きず、見て見ぬふりをしていた。
 今回の引っ越しではそういう訳にも行かず、勇気を持ってあらためてじっくり見てみると、悲惨なことになっている。ケースにも入れてなかったので埃だらけなのは言うまでもなく、写真では判りにくいが、ニカワが完全に剥がれて、ボディの部分がパックリと口が開いている。寒暖の差が激しい所に置かれた為だろう。楽器に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。修理に出せば再生できないことはなかろうが、自分への見せしめの為にしばらくこのまま置いておこうと思う。もし出来れば自分の手で時間を掛けて修理したい。




39.最初のFine

 毎日書いて来た「音楽その・・」シリーズ、内容が「現在」に追いついたところで、しばらく中断したいと思う。明日からはまた退屈な日記に戻るかも知れない。10人くらいの方が読んで下さっていたようで、いろいろ感想もいただいた。もともと誰かに読んでもらいたいと思って始めたものではなかったので、「毎日楽しみにしてます」とか言われるとえらく恥ずかしかった。
 中断するとは言ってもこれからも音楽シーンは当然続く訳で、少しでも音楽に関係する話の場合は連番で続けて行こうかとも思っている。

40.疑問

  当たり前のことだが、ブログに書けるようなおもろい話など、そう毎日あるものではない。朝7時過ぎに家を出て、普通は11時帰宅なのだから、仕事以外なーんにも無いことがほとんどな訳で。
 仕事関係の事を書けるならなんぼでも書くことはあるが、そうも行かない。と言う事で、今日は音楽シリーズの続き。
 学生時代から色々ライブをやって、経験上不思議に思っていることがある。それは、自分達の演奏がものすごくうまく行って、自分も思いきりノッてプレイする事が出来、今日はカンペキだ!と思った日は意外に客の反応が鈍く、反対に、自分が割と覚めていて、今日はイマイチかな?と思った時の方が、「今日は良かったよ!」と言われることが多い。
 そんな時には、演奏している自分を第3者的に見ている自分がどこかにもう一人いて、そいつは異様に冷静なのである。
 どうしてそんな事が起きるのかはよくわからない。冷静な方が間違いのない演奏が出来ると考えられないこともないが、所詮ベースなのだから、自分の精神状態がバンド全体の出来不出来にそれほど影響するとも思えない。誰かこの疑問に答えてくれる人いません?
(尚、写真の椰子の実状の物体は、先日修理するために持ってきたマンドリン)




41.いちご白書をもう一度

 最近、「青春のフォーク特集」とか称して、所謂「懐メロ」扱いで昔のフォーク歌手が登場するTV番組が多い。チャンネルを変えている途中で、そんな歌のフレーズが僅かでも聞こえたりすると、敏感に耳が反応してしまう。先日も「イチゴ白書をもう一度」が流れていたのでつい手を止めてしまったが、荒井由実(僕たちにとっては「松任谷由実」では無く、あくまでも「荒井由実」なのである)と中島みゆきの特集だった。
 ソングライターとしての特集なので、研ナオコの「カモメはカモメ」とか、アグネス・チャンの「白い靴下は似合わない」、柏原良恵の「春なのに」とか、本人が歌う懐かしい曲が次々に流れた。「アグネス・チャンなんてホンマに変わらへんなあ」とか言いながら、結局最後まで見てしまった。
 子供の頃、親父やお袋がテレビの懐メロ特集で、田端義夫や東海林太郎を懐かしげに聴いているのを見て「早く終わってほしい」と思っていた。うちの娘たちも、そんな風に思っているに違いないとちょっと聞いてみたら、そうでもないらしい。中島みゆきはさておき、ユーミンはそれなりに評価しているようだ。昔、「ビートルズも懐メロになるのだろうか?」(「ビートルズもクラシックになるのだろうか?」だったかも?)というコピーがあったが、世代を超えて支持される曲を30年以上も作り続ける彼女たちは、やっぱりすごい。




尚、この「いちご白書をもう一度」は、学生生活最後の年に流行った曲なので、特に想い出深い。


42.マンドリン

 ちょっと前のページにも写真を載せたが、壊れて捨てられるところだった古〜いマンドリンをもらって来た。SUZUKI製で、年式は不明であるが見た感じ30年は下らない。ネックとボディの接着が剥がれたのだろう、黄色のボンドで貼って、表からビス、裏は何と大きな又クギで止めてある。ペグは全て無い。ようく見るとボディにも大きな亀裂がある。使えるように出来るかどうかはわからないが、暖かくなったら少しずつ修理して見ようと思う。カントリーで使うフラットマンドリンなら弾いたことがあって、ピックで弾くトレモロはギターでも変わらないので、そう難しくはなかった。何にしてもヴァイオリンよりはましだろう。




43.3月30日

 「フランシーヌの場合」っていうヒット曲があった。今調べてみたら1969年だそうである。「三月三十日の日曜日、パリの朝に燃えた命ひとつ・・」歌い手はたしか新谷のり子といった。当時、日本では70年安保、世界ではベトナム反戦運動が、特に学生達の間でものすごく盛り上がっていて、世界中でデモがあり毎日のように学生と機動隊のぶつかるニュース映像が流れていた。そんな中、戦争に反対して焼身自殺した若いフランス女性の歌(実話と言われていたが真相は知らない。たぶん写真の方なのだろう)は、多くの人の心を捕えていた。ネットで検索してみたら左のジャケット写真が出てきたが、この絵には全く見覚えがない。新谷のり子さんが、ギターを抱えて歌っていた映像はしっかり焼き付いているのだが。
 最近は、またパリで学生たちのデモが盛んだそうである。その目的が反戦とかではなくて、どうも若者の既得権を守ろう!ということらしい。昔とは違うな・・・
(「フランシーヌの場合」は下記で聴けます。)このサイト、懐メロがいっぱい聴けて楽しい。
http://www.barks.jp/listen/?v=1&id=52009962




44.翼をください

 とうとうワールドカップが始まった。「今、私の願いごとが叶うならば翼がほしい」で始まるこの曲、少し前はサッカー日本代表のテーマソングみたいになっていて、試合のたびにサポーターの大合唱が巻き起こっていた。
 この曲、「赤い鳥」というグループの歌で、たぶん最初に発表されたのは1972年だと思うので、これも35年も前になる訳だ。いいものはすたれないことの証明みたいなものである。
 実は、バンドの真似事をして初めて人前で歌ったのがこの曲だったという事と、昔からヒコーキが大好きで、ユーミンの「ヒコーキ雲」同様、この歌にもかなり思い入れがある。 前回のワールドカップや予選時には、どこからともなく巻き起こる合唱にちょっと感動していた。この大合唱、今度のワールドカップでも聞けるのだろうか?




46.ヘ音記号

 ベーシストのくせに、ヘ音記号が苦手である。もともとピアノを習った訳でもなく、ギターは耳コピでやって来たし、タブ譜っていう便利なものがあるので、楽譜を読むという作業はほとんど必要なかった。それでも長年やっている内に少しは読めるようになって来た。(ただし♯や♭は2個以下に限る)

 ところがへ音記号、これがなかなか難物。ト音記号の場合のA(ラ)の位置がへ音記号だとC(ド)になって、たまに読み間違う。ピアノ弾きの人には考えられないだろうが、間違うのだからしょうがない。(HAMAバンドの皆様、Change the worldで、楽譜を見ていながら、たまにボロンとルートを外していたのはそのせいであります。最近はほとんど楽譜を見ないのでこんな間違いは少なくなりましたが。)

 今日、数少ない読者の一人(女性)に、「あるベーシストのつぶやき」でなく「あるベーシストのぼやき」ですね、って言われてしまった。確かに最近は「ぼやき」が多いかも知れない。気をつけよう。




47.ワインダー

 ネタが切れると持ち物の話になる。これはペグワインダーという、ギターの弦を張るときに、ペグのツマミ部分にはめてグルグル回して使う。手でやるよりも随分速く回せるらしい。
 「らしい」と書いたのは、実はまだ一回も使ったことが無いのである。このワインダー、何か月か前にバンマスハマちゃんから貰ったもので、それまでも弦を替えるときにはいつも手でゆっくりと巻いていた。それに、ちょうどこれを貰った頃に弦をエリクサに替えたので、まだまだ音は劣化せず、従ってワインダーを使う機会も無い。大事にしまいすぎて使いたい時に見つからないことがよくある。次に弦を替えるのは、たぶん秋頃になるのだろう。その時までこいつが無事でいるかどうか?




48.ブルース・ハープ

 音楽関係持ち物ネタの続きになる。これが今使っているブルースハープ(ハーモニカ)のセット。A、B、C、D、E、F、Gと計7調ある。ボディーが赤いGとCとDの3本は、たぶん三十年以上使っていると思う。残りは最近HAMAバンドになってから買った。この最近買ったのは、セットで何千円かの超安価品。学生の時に買ったのは確か一本千何百円かはしていた。30年前の千何百円って今なら数千円?昔の方が金があったのだろうか。

 所詮ハーモニカ、どのメーカーでもそんなに変わらんだろうと思っていたら、これがかなり違う。安物は同じ音量を出すのに息がたくさん必要で、その分、音色や高さの調節がしにくい。半音穴を持たないブルースハープでは、唇の絞り方や息の強弱で微妙な音階の上げ下げをしないといけないが、これが安物のほうはどうもうまく行かない。「中華料理」と「GET YOU ON MY MIND」用に、せめてEとAくらいはまともなのを買い直そうかなあ。

 今あらためて数えてみたら8本入っている。おかしいと思ったらCが2本あった・・・。




49.ピックたち

 音楽関係持ち物シリーズである。
 ピック、いったい今までにいくつ買っただろう?お気に入りのピックほど無くすことが多く(たぶんそればっかり使うから)、特にライブ直前にお気に入りを無くした時など、代わりのピックではどうも上手く弾けないような気がして不安になったものだ。
 ベースを始めた頃は、指弾きが全く出来ず、デカい三角ピックを使っていた。プロベーシストの中にもピック弾きはいないことはないが、やっぱり「ギターあがり」ってことが見え見えでカッコが悪い。
 アップライトを弓で弾くまでは行かなくても、せめて指で弾きたいと思ってかなり練習した。
 今の自作EUBになってからは、さすがにピックで弾くことは全く無くなってしまった。
 ギターの場合も、もっぱらフィンガーピッキングなのでサムピック(親指にはめる)を使うことが多い。
 右端の人差し指と中指にはめるヤツは、ベースの指弾きを始めた頃、それまで伸ばしていた右手の爪を完全に切ってしまった時、ギターのために使っていた。ベースを爪で弾いた時のビンビンした音に耐えられなかったからである。最近では爪で弾いても何とかまろやかな音が出せるようになったので、このピックを使うことはない。




50.キーボード

 おととい、久しぶりにHAMAちゃんと梅田のイシバシ楽器に行って、ギターやら新しい録音器材を見た。それから、昨日は近所のピアノの先生のお宅に行ったら、最新版XG―Worksのパッケージがおいてあった。

 あれだけやっていた「打ち込み」をここ何年か全くやっていない。ソフトもSSWのVer.2から全然変わっていないし。細かな画面を長時間見たり、音符をひとつずつ置いて曲を仕上げて行くような気持ちの集中に、体がついて来なくなったのかも知れないなあ。音符の打ち込みよりテニスやゴルフボールの打ち込みのほうが健康には良さそうではあるが。 と言うことで、またボチボチやろうかなと思って、とりあえずキーボードを出してみたが、MIDIケーブルがどうしても見つからない。また今度落ち着いて探そう。





51.MTR

 これがHAMAちゃんが最近買った最新式MTR!・・というのは真赤なウソで、自分が持っている10数年前のカセットテープ式のものである。ミキサー機能やイコライザ付きで4チャンネル同時録音可能。書いていてちょっと虚しいが、当時はこれでも最新式で、確か7万円近くした。
 前にも書いたように、今でもたまに使うことがある。この間も、娘の友達がダンスの練習に使うという曲を、テンポを変えて再録するのに動かした。最終的な編集はもちろんパソコンだが、それなりに使えている。
 デジタル機器の場合は、技術革新のスピードがあまりにも速すぎて、中でも記録メディアやそれを読むディバイス自体が無くなってしまうのが一番痛い。8インチや5インチのフロッピーはもちろん、3.5インチでも2Dとかまだ手元にあるが、今では読みようもない。現在の主流であるSDなどのメモリカードだって、5年後10年後に存在するのかどうかは怪しいものだ。
 それに比べると、「カセットテープ」の商品寿命は驚異的に長いと思う。40年くらいになるのだろうか?VHSのテープと共に、もうしばらくは存在しそうだ。




これを書いたのが20069月のこと、ひとまずこれでおしまい。

さて、続きはいつ書けるかな?






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